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小説「セイレーン」
バミューダ・トライアングルという海域をご存知だろうか?
フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、そしてバミューダ諸島を結んだ三角形の海域で強力なメキシコ湾流に加え、ハリケーンや霧などの悪天候が頻発するため、海難事故が絶えず、大昔から幾多の船人を海の藻屑と化してきた、所謂海の魔境だ。船だけを残し、乗組員だけが忽然と姿を消してしまうという伝説もあり、多くのフィクション作品の元となっている。
さて、これからご紹介するのは、そんな数ある海難事故にまつわる作り話の内のひとつ、ギリシア神話より、セイレーン…海の化け物の伝説。 翼を持ち、上半身は人間の女性、下半身は鳥の姿をしているとされるその化け物は、船人達を美しい歌声で惑わし、海へと引きずり込んだという。神話によれば、歌を聞いても生き残った人間がいた場合、彼女らは死ぬ運命となっていたということだが、実はオデュッセウスの策略による全滅の日にあって、死骸の山の中に加わっていなかった一匹がいたのだ。
語られることのない彼女の記憶。そして最期の物語を、どうか。
嵐の夜のことだ。その哀れな大船は、セイレーン達の声に導かれ、波間を今にも転覆しそうに揺蕩っていた。死へと、死へと、セイレーンは甘く誘う。船員は惑い、あるいは陶然と、あるいは恐怖に戦きながら、次々に海へと身を投げる。
「人間が落ちた、人間が落ちた」
姉妹鳥達は大騒ぎしながら狩りの成功を喜ぶ。彼女もまた、誇らしげに夜空を旋回する。嵐の風が心地よい。その時だった。その男と目があったのは。船尾の一角、彼は一人、嵐の空を見上げていた。
彼の目には死の歌(ララバイ)に操られ「うつけた」狂気も、我に返って死に恐怖する錯乱も存在しなかった。代わりに、彼の目には、静かな理知と、海より深い、夜よりも暗い闇が宿っていた。彼女の姿を見ると、彼はほんの少しの笑みを浮かべ、何かを言おうと口を開いた。
風が。どうと吹いて。
彼女は一瞬で彼を見失った。
「待って」
彼女は歌を歌うことも忘れ、彼のいた場所へ降り立つ。横殴りの波飛沫が叩きつける。船の縁が崩れていた。
彼はもう、
「人間が落ちた、人間がまた落ちた」
「みんな死んだ、みんな死んだ」
ギャアギャアとけたたましく姉妹鳥が笑う。普段は何とも思わないその声が、初めて厭わしく思った。彼女は海へと飛び込む。
嵐はますます激しく、船そのものをも飲み込んで、ついには転覆、波間へ引きずり込んでいく。セイレーンの群れは高らかに死の歌を歌い、大きく弧を描いて空へと舞い上がる。美しい歌声は暗い夜に遠く甘く、響きわたり、そこに船があったことさえ嘘かのように何もない黒い波間へ、滑らかに溶けていく。
潮騒が遠く聞こえた。あれから、もう何日が過ぎたことだろうか。
人間からも化け物からも忘れ去られた、古びた洞窟の奥、彼女の腕の中には彼の亡骸があった。嵐の海の中を必死で泳いで見つけ出した時には、彼はもう呼吸を止めていた。
人間はかくも脆い。
「聞きたいことがあったのに」
セイレーンは人間を殺すために存在している。なのに、彼のもう死を知っているような目を見たら。あの目を見たら、…当たり前だった死が、急にわからなくなった。
水滴がぽつり、ぽつりと彼女の頬を濡らす。死とは、何だったのだろう?
彼と同じものになりたいと思った。彼女は死に焦がれてしまった。もう群れには戻らない。彼女は歌いだす。彼の人の頭蓋を抱き。
彼女が知っている歌は一つだけ。死を誘うララバイ。どうか私を殺してください。
セイレーンは歌いだす。自らの最期が訪れることを願って。
彼女の物語はこれで終わり。ところでセイレーン達の伝説には後日談がある。セイレーンは死して歌声だけは死なないのだという。何とも恐ろしい話だ。オデュッセウスの奸計により全滅の憂き目にあったセイレーンの群れ。しかし船人はその後も死したセイレーン達の歌声を聞いた。
遥かな波間に揺られ、何処からともなく聞こえてくる歌声。
それは果たして死した群れの歌であったか、群れから離れた一匹の歌であったか。真実は嵐の海の闇の中。一つ言えることは、生還する者が無ければ、これらは語られることのない話だったということ。
セイレーンがその後どうなったか?それこそ誰も知り得ない都市伝説だろう。
※セイレーン
元はニュンペー(ニンフ)で、仕えていたペルセポネーが死の神に誘拐されたことを悲しむあまり、恋愛をしなくなったためにアフロディテの怒りを買い、怪鳥の姿にされたと言われる。
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